私ら夫婦の方言についての会話です。福島県いわき出身の私が伴侶に尋ねました。「ズークチする、ってなんのことか分かる?」岩手県遠野出身の彼曰く「む?何、それ?」
実は、「せあみたかり」の意味です。と言われて、もっと迷路に入ったかもデス。「せあみたかり」は、遠野の方言で「面倒くさがりや」のような意味、いわきの方言ではそれを「ズークチする」と言います。この二つの方言でも微妙な意味の違いはあるようですが、それは割愛します。
二人とも最近方言を聞く機会がグッと減り使うことも少なくなりましたので、どんどん方言を忘れてしまっています。しかし「ズークチする」と言う言葉を思い出した時は何か嬉しく、そして甘酸っぱい感覚が蘇りました。あの幼児時代のあの感覚やら環境やら周りの人たちの雰囲気が私の心に戻ってきました。これは、面白いものです。自分の中で「ズークチする」という言葉にはある種の感情がひっついている(これも方言?笑)ようです。
ここから、アメリカでの経験を思い出しました。その時は、サンフランシスコでハウスシェアリング、つまり大きなアパートを4、5人で家賃を分割し、共同で使っていました。
食事をリビングルームでとっている時のことです。その時ある事で目いっぱい落ち込んでいた私は、感情を抑えながらひとりで黙々と食事をしていました。そこに日本語が少し話せるアメリカ人のルームメイトが英語で”What’s wrong?(どうしたの)”と尋ねてきました。”Nothing.(なんでもないよ)”と私。彼は変だと思ったのか、今度は日本語で私に「どうしたの」と訊いてきました。その日本語を聞いた瞬間、抑えていた感情が爆発でもしたようにドッと涙が出てきてしまったのです。これには、自分でも驚きました。外国語と違い、母国語はまるで自分の細胞の隅々に刷り込まれているように感じました。
そういえば、異文化コミュニケーションでは「言語は文化である」と言われます。「文化」の特徴の一つは、「自分の細胞の隅々にまで深く浸透している」と言うことです。先の私の体験はこれを実証したようなものですね。文化って、何やらすごく寝ても冷めても自分にまとわりついているようですね。