私は、福島県いわき市の塩谷岬の直ぐ近くで生まれ育ちました。朝は、家からすぐ目の前の太平洋の潮騒の音で目を覚まし、夏休みには友達と一緒に毎朝、砂浜を散歩し貝殻などを拾って遊びました。また朝日が、波や濡れた砂浜、貝殻に反射して光っているのを見るのが大好きで、時には歩くのを止めて砂浜に寝そべって、その光を見て楽しんだものです。中学校に上がる頃は、海の向こうの水平線を眺めては「青い目をしたお人形は、アメリカ生まれのセルロイド」と言う歌を口ずさみ、遠い国、海外(当時は海外といえばアメリカという時代でした)に想いを馳せたものです。小さな小瓶に手紙を詰めて海に流し、文通相手になってくれる人が現れないか、と海の彼方からの頼りを受け取ることを夢見たものです。
法政大学の英文科に進み、3年の終わり頃だったと思いますが、海外へ行きたいという自分の夢をある先生に打ち明けました。当時(1970年代)は、現在と違って、海外へ行きたければすぐ行けるという時代ではなく、また、滞在する期間によっては、大学を留年しなければならないなどの問題がありましたので、大学の先生に相談してみたのです。その先生のご理解と許可を得て、留年することなく半年間の語学留学に行くことになりました。当時のレー トは1ドル280円でした。今と比較すると雲泥の差ですが、そのための資金はきついアルバイト をこなし、ようやく30数万円を貯めていました。頭の中はアメリカ一色でしたので、長時間の 立ちっぱなしのバイトも全く苦になりませんでした。子供の頃からの夢、アメリカの土を踏んだ のは21歳の春、これが私と海外の始まりです。